柳田国男 2012 11 10
もう一度、2011年11月25日の読売新聞から、引用します。
「遠野物語」で有名な柳田国男について、
このような記事がありました。
「日本の農政は、100年以上も同じ課題と格闘している」
柳田国男が農政官僚だったと知ったのは、ずっと後だ。
1904年の政策提言に、こうある。
「1戸あたりの農地面積が広いアメリカと競争するには、
2ヘクタール程度の中規模農家を養成すべきだ。
関税による保護しか策がないというのは、誤りだ」
驚いた。
関税に代わる農業振興。
海外との競争を視野に、日本の農政は、
100年以上も同じ課題と格闘しているのだ。
(課題に対する)答えは出さず、
今もコメの値段を高く維持することを主軸に、
農業保護策を組み立てている。
778%もの高関税と生産調整(減反)は、その両輪だ。
(中略)
1970年から続く減反では、
水田の4割に当たる100万ヘクタールが失われ、
その分、コメを作る力も、
国土保全など水田の多面的な機能も削られた。
それでも値段は下がり続けている。
(以上、引用)
農家出身の私は、常に創意工夫と挑戦に励む父を見て、
「悔しいけれど、農業で成功はないだろう」と思っていました。
日本の農業には、天井と床があるからです。
どんなに創意工夫と挑戦を続けても、
日本の農業には、規制や慣習という「天井」があります。
一方、そんなに努力しなくても食べていけるという補助金(床)があります。
だから、私の父は、農業には向いていなかった。
そして、父は、農業ビジネスで成功することはなかった。
それでも、父は、村人から批判されても、
「あっちの市場が高い」と聞けば、
軽自動車に農産物を載せて、市場に直接出荷していました。
父は、少しでも農産物を高く買ってくれる市場を探す日々でした。
こうして、父は、私の大学進学の費用を稼ぎました。
カラス 2009 9 5
私の子供時代は、まだ戦後復興の気配が残る時代で、
都市部はともかく、地方の農村部は貧しかったのです。
だから、「おやつ」という贅沢なものはなかったのです。
しかし、成長期だった私には、昼食と夕食の間が、あまりにも長かったのです。
自然の恵みが、私の空腹を満たした。
どこの家でも、庭や畑に果樹があり、
春にはイチゴや枇杷(びわ)、夏には桃や梨、秋には柿と、
空腹を満たす食料には不足がなかったのです。
しかし、冬が近づくと、果樹は冬支度を始める。
「俺たちは、カラスと同じだね」と、友達がつぶやく。
そのとき、果樹の仲間たちの思いは強いものとなっていく。
僕は学問で身を立てる。
俺は有名なスポーツ選手になる。
手に職をつけて立派な職人になる。